二極の世界に生きること。

上手くいくこと、上手くいかないこと。

好き、嫌い。

得意なこと、不得意なこと。

良い、悪い。

 

この世は二極に分けられている。

 

何かをやるなら、上手くいかないよりかは上手くいったほうがよい。

嫌いなものよりも好きなものに囲まれていたい。

不得意なものよりも、得意なものが多い方がよい。

悪いことよりも良いことが多い方がよい。

 

二極に分けられた世界では、優劣というジャッジが行われる。

しかしどちらが良くて、どちらが良くないかは世間が決めることではなく、自らが決めるものだと思う。

いや、そもそもジャッジがあること自体、行われること自体が違うのかもしれない。

 

ジャッジを超えてその先にあるものは、ただ行為をするということ。

結果だけをみた時に、ジャッジする心が芽生えてしまう。

それならば、結果をみることなく、今この瞬間の行為だけに心を込めればジャッジする心は起こらない。

 

結果とは自ずと訪れるもの。

しかしだからといって適当な行為ではなく、良い結果を生みだすための努力はするべき。

その努力とは、知識を貯えることだと僕は考えている。

それは学問というよりも、技術や生き方としての知識。

 

知識を貯えたのなら、あとは行為をするのみ。

もしくは知識を貯えながら行為する。

 

その行為にこそ結果は既に含まれているのだから。

 

そのひとつの作業の中にすでに結果が含まれている。

 

 

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ただ刺し刻むとき、僕が考え思うこと。

 

 

チクチクチクチクちくちくちくちく・・・

 

ひたすら針を刺し、ひたすら糸で模様を刻んでいく。

 

この模様を刻んでいくのは一体誰なのか?

 

それはわたし・・・

 

ではわたしとは誰か?

 

それは誰にも分からない、わたしはわたし。

 

この肉体、この精神、この感情、この思考、この欲望、この息づかい、この鼓動・・・

 

全てがわたしの一部。

 

そのようなわたしの一部が寄せ集まって、わたしという全体が現れる。

 

では全体の一部が欠けてしまうとわたしは無くなるのか?

 

否、そのようなはずはなく、わたしはわたしとして存在するだろう。

 

では、わたしとは何か?わたしとは誰か?

 

わたしなんてものは、そもそも答えのない抽象的なもので、人それぞれで違うわたしを保有している。

 

わたしとは主観的なもので、だからこそ、わたしとあなたは違うということになるのだろう。

 

わたしとは誰か?わたしとは何か?わたしなんてものはそもそも存在するのか?

 

チクチクチクチクちくちくちくちく・・・

 

わたしがただ刺す、ただ刻む・・・

 

ひょっとして、部分もわたしというのであれば、

 

この布、この糸、この針、この模様、この色、それらもわたしなのかもしれないな。

 

いや正確に言うと、わたしの一部がそこに現れるのか・・・

 

 

 

 

 

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キャンドルのともしび

 

 

 

キャンドルに、ポッと火が灯ればその周りがぼんやりと明るくなる。

蛍光灯とは違う、目の前だけを照らす小さな灯り。

 

私たちの人生は長い。

将来どのように生きているのか?どのような生活をしているのか?

夢は?ヴィジョンは?目標は?多くの人がそんなことを口にしながら生きている。

夢なき人生は認めないとばかりに。

 

そのような未来にしっかりと目を向けて、そこに向かって邁進することで人生は成功へと導かれるのだ・・・

そのためには遠くまで照らすサーチライトのような照明が必要なのだと、私たちは教えられてきた・・・

 

本当に?

 

僕は違うと思う。

本当に大切なのは、今この瞬間と、そこから少しだけ先の未来だと。

キャンドルを灯すたびに考える。今ここから何をしようかと・・・

 

小さな火では遠くまでは照らすことが出来ないが、

その火を持って、目の前を照らしながら歩くことで、自分の行きたかった目的地に辿り着けるのではないかなと思う。

 

遠くを照らし足下を見ず、つまずいてしまうよりも、

足下を照らし、安全に歩く方が僕には合っているのだと、この歳になってやっと気づいたのでした。

 

 

 

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遊ぶこと、祈ること。

インドのサンスクリット語で”leela(リーラ)”という言葉があります。

リーラとは、神々の遊びや戯れというような意味だそうです。

この宇宙に起こる全ての事、現象や事象は全てリーラであると・・・

つまり、全てが遊びとして起こっている以上、起こる全てにそんなに大した意味合いはないんだよと、

だからシリアスになりすぎずにね、結果に執着しないでね、過剰に期待ばっかりして生きていくよりも、

起こること起こることを、ただ「ああ、そうか」とやり過ごせばいいだけなんだよと、だって遊びの世界なんだから。

瞬間瞬間の行為にだけ意識を向けていたらいいんだよ、それが全ての真実だから。

今やるべきことを考えるよりも、今やりたいことをする。

やっていることだけに集中して、その行為とひとつになることがいわゆる瞑想状態。

瞑想状態は変性意識の状態。

変性意識とは、トランス状態のこと。

何かに無心で没頭したとき、ただ無心に祈るとき、人はトランス状態になる・・・

全力で遊んでいる子供は、ちょっと半狂乱状態(笑)・・・トランス状態だと思う。

だけどそれは純粋無垢に全力を注いで行為しているから。

英語で、「遊ぶ」は"PLAY" 「祈る」は"PRAY"

遊ぶことって全力で無心で、時間を忘れて没頭するもの・・・

祈ることって全力で無心で、脇目もふらずに没頭するもの・・・

遊ぶことと祈ることって、とてもよく似ている。

だから子供は”悟っている”とよく言われる。

大人になると、自分が悟っていたことなんて忘れてしまう・・・

そして大人になると、一部の人は悟りに憧れ、もっともっとと知識を増やそうとする。

でも違うのです・・・なぜなら、悟りとは思い出すものだから・・・

でも得た知識は無駄ではなく、悟りを思い出すためのヒントとなるのでしょうね。

人生は短いものだろうと思います。

短い人生ならば、シリアスになりすぎて眉間にシワを寄せて過ごすよりも、自由に遊ぶように笑いながら過ごしたいものです。

僕の人生で無心になれる行為のひとつは、ものをつくるということ・・・それは遊びであり、祈りです。

だから、今日も神々の遊びと戯れの中で無心に手を動かしていたいと思うのです。

ゆっくり歩くこと、ゆっくりいくこと

「ゆっくり、ぼちぼち」・・・これが人生のコンセプト。

 

走ることは、苦手で嫌いだ。

マラソンなんかをしている人を見ると本当に心の底から尊敬する。

 

走ることは、スポーツやトレーニングを除いて、短時間で目的地に辿り着くための方法。

歩くことは、ウォーキングなどを除いて、時間をかけてゆっくりと目的地に辿り着くための方法。

走ることは、急ぐことで、歩くことはゆっくりいくことだと思う。

僕はそのようにして、走ることと歩くことを区別している。

 

では、日常の生活の中で、どれくらいの時間を歩くようにゆっくりと過ごしているのだろうか。

 

会社や組織の中では、とにかくスピードと結果を求められる。

早く結果が出れば、それは素晴らしいやり方だったのであり、素晴らしい成果として認められる。

しかし、

逆に遅く、しかも結果がほどほどであれば、「そんなもんか・・・」と、認められない。

 

だから多くの人は、走り方を学ぼうと必死になる。

より速く、早く、結果を、と・・・

とにかく、多くの人は、より良い結果を出して他者から認められ、社会からも認められたいのだ。

 

だから、焦る。

だから、急ぐ。

だから、心ここに在らずの、未来思考になる。

 

結果とは未来のことで、未だ来ずの想像の世界だ。

当たり前だが、結果を出すためにはプロセスが大切で、そのプロセスとは、今ここで何をするかということだ。

よく言われる”原因と結果の法則”はこのことを言っている。

実はとてもシンプルな法則だ、というか当たり前のことを言っている・・・

 

未来に向かって、どのように進んでいくのかは、その人次第で、いうなれば勝手だ。

 

だからここで書いていることも、僕の見解であり、勝手だ。

と記した上で、僕の考えを書いてみる。

 

 

「ゆっくりぼちぼち」が僕の生きていく上でのコンセプト。

”ゆっくりぼちぼち”

この言葉の裏にあるのは、人生を味わい、瞬間を味わいつくすということ。

できるだけ遅く歩く、周りの景色を楽しむように、なるべく遅く歩く。

歩いていった先にどのような世界が広がっているか、今はまだ分からない。

未来に起こることは、全てが結果にすぎない。

だからと言って、未来の結果をないがしろにはしない。

その時に楽しんでいる自分や家族の笑顔、その時の環境や状況は思い描くことがある。

しかし、思い描いた上で、それを忘れる。(厳密に言うと、潜在意識に沈めておくようなイメージかな)

向上心を持つことや、素晴らしき未来を想像することは、決して悪いことではない。

しかし、問題は、そこに執着するあまり、今という大事な瞬間を見失うことだ。

 

だから僕は、想像したら忘れるようにしている。

そして、今をただゆっくりぼちぼちと歩き続けるのみ。

あとは勝手に、未来がやってくる。

 

そしてこのコンセプトは、ものづくりにもあてはまる考え方で、僕はゆっくりぼちぼちと今この瞬間に手を動かします。

どのようなものが出来上がるかは、実は分からずに作っています。

でも作る前に想像があるから大丈夫。結果は自ずとやってきます。

設計図のようなものを書いてみたり、人に頼まれて作る場合はきちんとした結果を出しますが、基本的には行き当たりばったりの偶然に出来上がるものが多いです。

でもそれでいいのです。

結果ばかりを求めて、効率ばかりを求めて、急いでしまうよりは、遅くてもいいから自分の人生に合った思想と哲学をもってものづくりに向き合うことが、僕が僕の人生を生きるということなのです。

 

他の誰かに認めてもらいたい、世間から認められたい、そのようにして認められるためのものづくりは、僕にとっては急ぎ足で焦りながら走っているようなイメージです。

 

ゆっくりぼちぼち、無駄に見えるような寄り道をしながら歩き続けたいのです。