大切

外見は歪んだりしていても、大切なものは中身とその裏側の物語にあるのです。
美しい外見に囚われてうっとりしている人々よ。いまある外見的な美しさは無常です。人々は、美しさが全てと心を乱し焦り、美しさで争い、美しさに妬み憎しみ、美しさで身を滅ぼす。
それはエゴという人間の醜さなのだよ。 歪み汚れ、でも他と調和している。それが自然。
美しさとはそんな自然の中にこそあるのだよ。

ショーケースの中よりも、青く広がる空を見上げたほうが気持ちいい。
高いビルの展望台よりも、自力で山に登って見る景色のほうが心は満たされる。

二極の世界に生きること。

上手くいくこと、上手くいかないこと。

好き、嫌い。

得意なこと、不得意なこと。

良い、悪い。

 

この世は二極に分けられている。

 

何かをやるなら、上手くいかないよりかは上手くいったほうがよい。

嫌いなものよりも好きなものに囲まれていたい。

不得意なものよりも、得意なものが多い方がよい。

悪いことよりも良いことが多い方がよい。

 

二極に分けられた世界では、優劣というジャッジが行われる。

しかしどちらが良くて、どちらが良くないかは世間が決めることではなく、自らが決めるものだと思う。

いや、そもそもジャッジがあること自体、行われること自体が違うのかもしれない。

 

ジャッジを超えてその先にあるものは、ただ行為をするということ。

結果だけをみた時に、ジャッジする心が芽生えてしまう。

それならば、結果をみることなく、今この瞬間の行為だけに心を込めればジャッジする心は起こらない。

 

結果とは自ずと訪れるもの。

しかしだからといって適当な行為ではなく、良い結果を生みだすための努力はするべき。

その努力とは、知識を貯えることだと僕は考えている。

それは学問というよりも、技術や生き方としての知識。

 

知識を貯えたのなら、あとは行為をするのみ。

もしくは知識を貯えながら行為する。

 

その行為にこそ結果は既に含まれているのだから。

 

そのひとつの作業の中にすでに結果が含まれている。

 

 

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ただ刺し刻むとき、僕が考え思うこと。

 

 

チクチクチクチクちくちくちくちく・・・

 

ひたすら針を刺し、ひたすら糸で模様を刻んでいく。

 

この模様を刻んでいくのは一体誰なのか?

 

それはわたし・・・

 

ではわたしとは誰か?

 

それは誰にも分からない、わたしはわたし。

 

この肉体、この精神、この感情、この思考、この欲望、この息づかい、この鼓動・・・

 

全てがわたしの一部。

 

そのようなわたしの一部が寄せ集まって、わたしという全体が現れる。

 

では全体の一部が欠けてしまうとわたしは無くなるのか?

 

否、そのようなはずはなく、わたしはわたしとして存在するだろう。

 

では、わたしとは何か?わたしとは誰か?

 

わたしなんてものは、そもそも答えのない抽象的なもので、人それぞれで違うわたしを保有している。

 

わたしとは主観的なもので、だからこそ、わたしとあなたは違うということになるのだろう。

 

わたしとは誰か?わたしとは何か?わたしなんてものはそもそも存在するのか?

 

チクチクチクチクちくちくちくちく・・・

 

わたしがただ刺す、ただ刻む・・・

 

ひょっとして、部分もわたしというのであれば、

 

この布、この糸、この針、この模様、この色、それらもわたしなのかもしれないな。

 

いや正確に言うと、わたしの一部がそこに現れるのか・・・

 

 

 

 

 

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消えゆくもの

 

この世は無常、現れては消えてゆく。

 

この世は無常、生まれては死んでゆく。

 

それがこの世の定め、この宇宙の絶対真理。

 

形あるものにとらわれ依存してしまう、手の中に握ったものを手放したくない気持ちが執着となる。

 

依存と執着は、いわばとらわれた状態。

 

つまりそれは不自由なのだ。

 

私たちは自由に生きたいと言いつつ、様々なものに依存するあまり、自ら不自由となっていく。

 

私たちは満たされたいと言いつつ、手に入れたものを手放せないことで不自由になっていく。

 

この世は無常。

 

それが真実なのであれば、今あるものにとらわれない方が、実は満たされるのかもしれない。

 

大切と思っているものを、過剰に握りしめることをやめた方が、実は自由になれるかもしれない。

 

 

 

僕が、キャンドルを灯すと思うこと。

 

火を灯す、キャンドル本体を燃料としながら、火は灯り続ける。

 

当たり前だが、燃料である以上は、火を灯すたびに減っていく。

 

火を灯せば灯すほど減っていく。

 

時間の経過とともに、どんどん減っていく

 

そして、やがてなくなってしまう。

 

火を灯している時は、周りを明るくしてくれる。

 

火が灯っている間は、辺りを美しく照らしてくれる。

 

火をぼんやり眺めていると、温かい気持ちにしてくれる。

 

だけど、火を灯すたびにキャンドル本体は減っていく。

 

そして、やがていつかは消えてなくなる。

 

ああ無常・・・

 

キャンドルが無常なのと同じように、私たちの肉体も無常。

 

生まれては消えゆく定めなのだ。

 

そのようなものにこだわりすぎてとらわれるから苦しみが生まれるのだ。

 

無我。

 

私なんてものはそもそもないのだ。

 

言葉で言うことは簡単で、日常ではやはり”私が私が”と自我意識が前のめりになっている。

 

 

無常と無我、そのことを悟るのはまだまだ先のようです。

 

 

 

 

 

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キャンドルのともしび

 

 

 

キャンドルに、ポッと火が灯ればその周りがぼんやりと明るくなる。

蛍光灯とは違う、目の前だけを照らす小さな灯り。

 

私たちの人生は長い。

将来どのように生きているのか?どのような生活をしているのか?

夢は?ヴィジョンは?目標は?多くの人がそんなことを口にしながら生きている。

夢なき人生は認めないとばかりに。

 

そのような未来にしっかりと目を向けて、そこに向かって邁進することで人生は成功へと導かれるのだ・・・

そのためには遠くまで照らすサーチライトのような照明が必要なのだと、私たちは教えられてきた・・・

 

本当に?

 

僕は違うと思う。

本当に大切なのは、今この瞬間と、そこから少しだけ先の未来だと。

キャンドルを灯すたびに考える。今ここから何をしようかと・・・

 

小さな火では遠くまでは照らすことが出来ないが、

その火を持って、目の前を照らしながら歩くことで、自分の行きたかった目的地に辿り着けるのではないかなと思う。

 

遠くを照らし足下を見ず、つまずいてしまうよりも、

足下を照らし、安全に歩く方が僕には合っているのだと、この歳になってやっと気づいたのでした。

 

 

 

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